2018年08月01日

オハフ60 44

まだ戦後の混乱も冷めやまぬ1949年、深刻な問題となっていた古い木造客車の老朽化対策と安全面から、その主要部品と新製車体を組み合わせて造り替えたのがオハ60系です。鋼体化客車あるいは鋼体化改造車と言われるグループですが、当時の資材難に加え、車両新造については進駐軍当局による厳しい規制があった中、改造名義ということで辛うじて製造が許された客車でした。
製造には多くの民間メーカーも参入し、国内における産業育成と終戦後の復興輸送に貢献した60系ですが、工作の簡易化に伴う切妻構造の採用や、緩急車については後方監視を容易にする事から、車掌室を出入り台の外側へ設けたのも、この系列が最初でした。
画像はオハ60と共に、鋼体化客車の中で最も初期に造られた緩急車のオハフ60です。3枚連続の小窓が並ぶ様に木造車の血統が見られる車両で、主に北海道に配置されました。
オハフ60_44.jpg
1981.3 釧路

撮影のオハフ60 44は最後に残った1両で、1981年3月に釧路を訪れた際のものですが、時既に遅し。既に廃車前提の保留車として側線に留置されている様子で、釧網本線での乗車が叶わなかっのたは残念です。
また、本車では車掌室の窓が家庭用アルミサッシに交換されています。下降窓だった車掌室の腐食対策で、形式を問わず、他の北海道配置車で良くみられた形態でした。
タグ:オハフ60 44
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オハフ41 203

珍しい通勤形客車オハフ41 200番代です。元々のオハ41、オハフ41では余剰となった1等車・グリーン車を種車に改造され、緩急車のオハフ41は0番代3両、100番代1両の計4両しかない客車でした。
本車の場合は43系の緩急車スハフ42 40・41・278からの通勤形改造で、41系客車では最も遅い1979年に201〜203の3両がオハフ41の追加番代車として登場しました。翌年以降に0番代・100番代の廃車が進行し、全7両が存在したのは、ごく短期間でした。

200番代は山陰本線の下関口でラッシュ時増結や行商専用車として用いられました。他の41系と異なり、便所や洗面所、便洗面所側と客室の内仕切りが種車時代のまま残置されていたように記憶しています。
オハフ41_203.jpg
1982.4 長門市
オハフ41_200番代車内.jpg
オハフ41 200番代車の車内全景
オハフ41_50系併結.jpg
50系客車との併結運用 1982.4 門司

また、主に50系客車と併結で運用されることから、自動ドアの空気元を機関車から引き通す必要があり、MR菅対応工事も施されていました。1984年2月ダイヤ改正まで存在した長距離普通列車824レ(門司5:52ー福知山23:51)にも長門市まで付属編成として連結され、当時、乗車された方の中では、見かけた人も居るのではないでしょうか。
200番代は、この年までの運用で、事業用車※2オヤ62に再改造された写真の203号を除いて廃車となり、オハフ41は形式消滅となりました。

※1オハフ41 0番代、100番代については金沢・姫路区に配置され、晩年は七尾線・播但線で運用されていました。両線区において、50系客車の投入により1981年までに置き換え廃車となっています。

※2最後は民間に払い下げられて、車体は三重県で飲食店として利用されたようです。
タグ:オハフ41 203
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オハ41 411 オハ41 502

1964年から1970年にかけて、余剰となっていた優等客車を地方都市のラッシュ時輸送用に格下げ転用し、通勤形に改造された客車がオハ41です。同時期に緩急車のオハフ41も登場しています。
全てが改造車だったオハ41は、2人掛けリクライニングシートを備えたスロ51・52・スロフ51・53(※1特ロ→グリーン車)、または転換・回転式2人掛け、および4人掛けボックス席のオロ35・36・40・41・42(※1並ロ)等、種車も様々で、元の客車形式ごとに9つもの※2番代に区分されていました。
北海道を除いた全国の地方区所に配置されて、主に北陸の七尾線や近畿・中四国では元特ロ車、東北そのほかの地域では元並ロ車から改造された車が多かったようです。近畿圏では晩年、向日町・亀山・姫路に配置され、客車列車の50系化まで草津線・播但線・姫新線において活躍が見られました。

改造の内容は、座席のロングシート化、吊り革の取り付け、洗面所と客室側仕切りの撤去が行われ、便所については番代によって残された車と撤去された車とがありました。乗降口が片側のみだった客車については、第2便洗面所、乗務員室も撤去の上、デッキが増設されました。種車時代にTR40形台車を履いていた車では、オロ42を除きTR23に振替が行われた他、近代化改造の施工状況に関わらず、ぶどう色2号のチョコレート色を纏っていました。

オハ41_411.jpg
オハ41 411 (佐々木 祐二様 提供)
オハ41_502.jpg
オハ41 502 (佐々木 祐二様 提供)

写真は元スロ52 8(スロ51 31を形式変更)から改造された400番代車のオハ41 411、元スロフ51 43(スロ51 43を緩急車化改造)からの500番代車、オハ41 502で、岡山近郊の伯備線や吉備線、津山線の通勤列車で運用されていました。
特に411号については、グリーン車のスロ52時代、函館運転所に配置所属。あのC62重連で名を馳せた名列車、急行「ていね」号や、後の「ニセコ」号に連結されていました。当初、スロ52は姉妹車形式のスロ51として登場し、※3新製時から二重窓仕様の北海道用につては区別のため形式変更となったものです。グリーン車の冷房化により後継のスロ54・62と交代で本州へやって来ましたが、北海道からの旅客車両転配は大変珍しい例でした。

オハ41は急行や準急運用から外れて隠居という印象がピッタリで、大半が編成中に1、2両組み込まれて、朝夕に1往復、あるいは夕方に地方のターミナル駅を出発、翌朝に折り返して戻って来るような使われ方でした。
下の画像は、古い8mm映画に映っていた1コマですが、グリーン車時代のスロフ51です。
スロフ51_2039.jpg

ー「阪急電車みたいな客車」ー
ところで、私の子供の頃の話になりますが、オハ41については、153系や117系新快速の車窓から向日町運転所に止まっている姿を見かけのが初見です。形式も、その素性も知らず、太い窓柱とアルミサッシの小窓が並ぶ端正な姿に「阪急電車みたいな綺麗な客車だな」「座席は本で見た44系客車みたいな転換シートかな?」という印象で興味津々。
後日、京都駅直通の草津線列車で走っていることを知り、その時の対面では、思い描いていたイメージとの余りにもの落差に、ショックを受けたことが思い起こされます。気動車や電車と違って、どこか気品が感じられる客車については全部クロスシートがあたり前、とばかり考えていたのですから。
お客さんが後頭部を窓側に向けて乗っている様子に、後々も違和感が消えることはなかった客車でした。

※1 3等制だった時代、特ロは部内用語で旧特別2等車、並ロは旧2等車を指しました。急行列車での利用には2等運賃のほか、2等急行料金が必要で、特ロ車(座席指定)と並ロ車(自由席)両方が連結されていた列車もあり、座席設備の差から料金が各々で異なりました。どちらも等級制度が1960年に改められて1等車となりますが、この頃までに元特ロ1等車は主に特急・急行用、元並ロ1等車については、普通列車や準急用と使用列車の棲み分けが図られました。
後に1969年の制度改正で等級制運賃が廃止され、1等車はグリーン車に改められました。グリーン車利用については普通運賃に各種グリーン料金が加わる現在の国鉄〜JRの運賃料金制度となりました。

客車の元並ロ1等車については、その前年となる1968年までに格下げや荷物車への改造、または廃車が進められ、43.10ダイヤ改正までに運用は終了しました。一時的に、座席は1等車時代のまま格下となったオハ51(1世代目)・53・55を経て、オハ41に改造された車両もありました。
利用者の多い東海道・横須賀線や京阪神の電車区間を走る旧並ロクラスの1等車(サロ110、サロ111等)だけは、普通グリーン車として継続が図られて、名残が今も首都圏近郊列車に連結されるグリーン車に見られます。

※2 オハ41は0番代(オロ36)、50番代(オロ40張上げ屋根車)・100番代(オロ40)、250番代(オロ42)、300番代(オロ35)、350番代(スロ51)、400番代(スロ52)、450番代(スロフ53)、500番代(スロフ51)
  
  オハフ41は0番代(スロフ51)、100番代(スロフ53)、200番代(スハフ42)

※3 スロ51は北海道用と本州用新製車とがあり、北海道用はのちにスロ52に形式変更されました。また本州用スロ51の中からスロ52に耐寒改造された車も存在しました。
posted by tera-pro管理人 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 車両形式ライブラリ客車編
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