2018年08月01日

オハフ62 20

オハ62の緩急車として1954年より30両が鋼体化改造により製造されました。後に本州用オハフ61から北海道向けに再改造された10両が加わり、全部で40両の陣容でした。
1960年から5両が、気動車にも改造され、こちらは車掌室に運転台を設けた旧キハ45(後にキハ08に改番)となりました。最後は道内の釧網本線でオハ62と共に混合列車で運用されて、1984年の全列車気動車化で引退となったようです。写真のオハフ62 20については窓ガラス越しに、座席背ズリのモケット張り改装を施されていた様子が判ります。
オハフ62_20.jpg
1981.9 大沼公園
タグ:オハフ62 20
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オハ62 92

オハ61を北海道用に二重窓構造、蓄電池(バッテリ)を大型容量としたのがオハ62です。1951年より130両が作られました。オハ61やオハフ61の日除けは鎧戸ですが、北海道用では代わりに二重窓が設置されたため、他系列の客車並みにロール式カーテンの日除けも付いていました。130両のうち6両が客車改造気動車の種車となり、キハ40(後にキハ08に改番)、キサハ45に3両づつ改造されました。

写真は釧網本線で活躍していたオハ62 92号で、同線で行われていた貨車との※2混合列車運転に備えて、石油ファンヒーター装置を床下に設けていました。釧網本線を受け持っていた釧路区のオハ62では、鋼体化客車の中でも、※1背ズリにモケット地クッション取付と室内照明の蛍光灯化整備を施されていた事が特筆されます。
同線では釧路方のみに緩急車を連結することから、網走方に編成されるオハ62やオハ47には取外し式のテールライトを付けて運用されていました。
オハ62_92.jpg
1983.8 網走

オハ62窓周り.jpg
釧網本線のオハ62座席と二重窓  

数では圧倒的な両数を誇ったオハ61の方が早くに形式消滅しましたが、オハ62は釧網本線と例外的に2両が本州に配置されていた五能線で、どちらも全列車が気動車化される1984年2月まで見られました。


※1980年3月の電化まで草津線で運用されていた近郊型改造のオハフ61 1500番代でも、同様の施工が行われていたのを記憶しています。

※2混合列車では各駅で行われる入換え作業の効率上、機関車次位に貨車を連結する場合が多く、冬季では暖房の熱源となる蒸気を客車に供給できない為。石油暖房設備のなかった時代の混合列車では、各車のボックス席を一部取り外して、石炭ストーブが設置されていました。
posted by tera-pro管理人 at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 車両形式ライブラリ客車編

オハフ61 650

オハ60、オハフ60を1m幅の広窓構造として1951年に改良登場したのがオハ61、オハフ61です。両数もオハ61が1052両、オハフ61が795両の大所帯で、鋼体化客車を代表する形式でした。
後に両形式の車端部2ボックス分をロングシートに改造した近郊形1500番代、和田岬線専用車として座席を殆ど撤去したオハ64とオハフ64、オハ61をリクライニングシート座席に改装した旧2等車オロ61、さらにオハフ61の車掌室を運転台に改造した気動車、キクハ45も登場しました。和田岬線のオハ64・オハフ64ではJR化後の1991年まで現役で、定期列車としては最後の旧型客車使用の列車でした。
オハフ61_650.jpg
1980.7 京都

車体は新製ながら大正時代に製造された木造車の台枠、釣り合いバネ式のTR11台車、連結器の主要部品をはじめ、座席や網棚の支持金具まで種車から流用されています。車内も輸送力を重視した仕様の故、※1シートピッチを1,335mmに詰めて、定員は他の客車よりも2ボックス多い+8名とされました。
オハフ61_650車内.jpg
オハフ61 650車内 1982.6 若桜
オハフ61_650窓周り.jpg

ー快適とは無縁だった客車ー
ここからは実際に乗った経験がある私の評価になりますが、オハ60系については、薄暗い白熱灯照明の車内、狭いシートピッチ、木造車時代さながらの板張り式背ズリ、夏は扇風機なしに加えて縦揺れの激しいTR11台車の乗り心地は、長時間乗車に適さない客車でした。特に車端部座席の各8名分については背ズリすら省略されていて、仕切壁に直接、背中をもたれて座るという接客設備。古いオハ35系と比較しても落差は大きく、子供の目にも、最低限の製作コストで作られた背景が見て取れる車でした。

80年頃までの地元、山陰本線京都口の客車列車では大抵の列車で、このオハフ61が編成中に1両は混ざっていまして、鉄道ファンでない一般利用客でさえも粗悪な同車を避けていたものです。遠目には珍しかった茶色のスハフ42にそっくりで、ホームへ入線してくる際に期待半分で近寄ってみたら、やっぱりオハフ61だった時のガッカリ感は今も忘れられません。

60系客車は在来型客車の中でも、このように設備レベルの差が顕著だった事もあって、淘汰はローカル線の気動車進出が進んだ1970年頃からと早く、50系客車も新製されるようになると急速に姿を消していきました。オハフ61は少数が※2四国と東北に辛うじて最後まで残っていましたが、1985年までに運用を外れています。


※1 オハ35・スハ43・オハ12は定員88名、シートピッチはそれぞれ1,455mm・1,470mm・1,580mm。

※2 1985年の正月に最後の花道?として臨時急行「いよ52号」に使われたのは、知る人ぞ知る有名な話でした。1960年代では東北方面の臨時急行にも抜擢されたようですが、京都の当地では1978年頃の遅くまで、末近代化改造車のオハ35系ばかりを寄せ集めて運転されていた「白兎51号」(京都ー出雲市 全車指定席 客車8両編成)に連結されていたのを知人が目撃しています。

※3 1500番代は草津線でも運用されていましたが、座席はクッション付きのモケット張り、蛍光灯照明に改装されていました。
タグ:オハフ61 650
posted by tera-pro管理人 at 00:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 車両形式ライブラリ客車編
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