オハ60、オハフ60を1m幅の広窓構造として1951年に改良登場したのがオハ61、オハフ61です。両数もオハ61が1052両、オハフ61が795両の大所帯で、鋼体化客車を代表する形式でした。
後に両形式の車端部2ボックス分をロングシートに改造した
※近郊形1500番代、和田岬線専用車として座席を殆ど撤去したオハ64とオハフ64、オハ61をリクライニングシート座席に改装した旧2等車オロ61、さらにオハフ61の車掌室を運転台に改造した気動車、キクハ45も登場しました。和田岬線のオハ64・オハフ64ではJR化後の1991年まで現役で、定期列車としては最後の旧型客車使用の列車でした。
1980.7 京都
車体は新製ながら大正時代に製造された木造車の台枠、釣り合いバネ式のTR11台車、連結器の主要部品をはじめ、座席や網棚の支持金具まで種車から流用されています。車内も輸送力を重視した仕様の故、
※1シートピッチを1,335mmに詰めて、定員は他の客車よりも2ボックス多い+8名とされました。
オハフ61 650車内 1982.6 若桜
ー快適とは無縁だった客車ー
ここからは実際に乗った経験がある私の評価になりますが、オハ60系については、薄暗い白熱灯照明の車内、狭いシートピッチ、木造車時代さながらの板張り式背ズリ、夏は扇風機なしに加えて縦揺れの激しいTR11台車の乗り心地は、長時間乗車に適さない客車でした。特に車端部座席の各8名分については背ズリすら省略されていて、仕切壁に直接、背中をもたれて座るという接客設備。古いオハ35系と比較しても落差は大きく、子供の目にも、最低限の製作コストで作られた背景が見て取れる車でした。
80年頃までの地元、山陰本線京都口の客車列車では大抵の列車で、このオハフ61が編成中に1両は混ざっていまして、鉄道ファンでない一般利用客でさえも粗悪な同車を避けていたものです。遠目には珍しかった茶色のスハフ42にそっくりで、ホームへ入線してくる際に期待半分で近寄ってみたら、やっぱりオハフ61だった時のガッカリ感は今も忘れられません。
60系客車は在来型客車の中でも、このように設備レベルの差が顕著だった事もあって、淘汰はローカル線の気動車進出が進んだ1970年頃からと早く、50系客車も新製されるようになると急速に姿を消していきました。オハフ61は少数が
※2四国と東北に辛うじて最後まで残っていましたが、1985年までに運用を外れています。
※1 オハ35・スハ43・オハ12は定員88名、シートピッチはそれぞれ1,455mm・1,470mm・1,580mm。
※2 1985年の正月に最後の花道?として臨時急行「いよ52号」に使われたのは、知る人ぞ知る有名な話でした。1960年代では東北方面の臨時急行にも抜擢されたようですが、京都の当地では1978年頃の遅くまで、末近代化改造車のオハ35系ばかりを寄せ集めて運転されていた「白兎51号」(京都ー出雲市 全車指定席 客車8両編成)に連結されていたのを知人が目撃しています。
※3 1500番代は草津線でも運用されていましたが、座席はクッション付きのモケット張り、蛍光灯照明に改装されていました。
posted by tera-pro管理人 at 00:31|
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